源平古戦場・倶梨伽羅むかし道
やや古い話題となりましたが、かってないほどの猛暑続きの夏、今年もお盆前に自分と妻、それぞれの実家の墓参りを兼ねて富山に帰省しました。
ついでに?幾つかの用事もこなしてきました。
まずは、11月に楽山会の会山行として予定している「倶梨伽羅むかし道」の下見です。
加賀と越中を結ぶ峠道として早くから利用されていましたが、この街道が有名になったのは、何といってもあの旭将軍・木曽義仲が牛の角に松明を結んで、10万の平家軍を谷底に追い落として大勝利したという『倶梨伽羅古戦場・火牛の計』としての由緒でしょう。
倶梨伽羅で負けた平家は、京より追われて・・・やがて滅亡する。
その後も参勤交代などにも利用されるなど、重要な道として役目を果たしてきた倶梨伽羅峠道は、昭和30年代まで使われていたといいます。
歴史を刻む倶梨伽羅峠、幾つかの見どころもあります。数10年ぶりに訪ねてみました。
コース全体、富山県側(左)より石川県側(右) クリックで拡大!
スタートは小矢部市の護国神社、脇には立派な「源平の里・埴生口」として観光案内所があります。街道の説明や源平合戦の様子、更にはパンフレットやお土産まで、何でもそろいます。
義仲が戦勝祈願したという「埴生護国神社」、幾つもの歴史的遺物も見られます。
(階段の上が埴生護国神社、重要文化財です)
(旭将軍・木曽義仲の騎馬像、デカイ!)
神社参拝後は、遊歩道入口からむかし道への歩きスタートです。小石を敷いた簡易舗装がしばらく続きましたが、次第に昔の道らしくなってきました。
「たるみの茶屋跡」を過ぎ、広く開放的な「峠茶屋跡」にきました。ここには昭和30年代頃まで、行き交う人々のために茶屋があったとされ、故事にまつわる石塔などが幾つもありました。
(”むかし道”スタート地点。駐車場やトイレあり)
(むかし道らしくなってきました)
(開放的な峠茶屋跡)
更に進むと「矢立堂」~「塔の橋」~「砂坂」~「猿ヶ馬場」などの見どころが続きます。今回はあまり時間が無いので急ぎ足の下見となりましたが、それぞれに歴史的価値もあり次回はゆっくりと見学したいものです。
石川県に入ると、源平古戦場の色彩がより強くなってきます。
「平家の陣地跡」、「源平合戦慰霊の地」を過ぎると、牛の角に松明を付けた「火牛の計」の像もありました。、400頭~500頭もの頭数を集め、嫌がる牛の角に松明を付ける・・・出来るものだろうか?、だれか実験してくれないものか?
(源平合戦平家陣地跡、手前の平石で軍議したらしい)
(源平合戦慰霊の地)
(「火牛の計」の像、牛迷惑だったろうなぁ・・)
展望台や公園もありますが、立派な「平家慰霊塔」もあります。
そして、今回の終点は「倶梨伽羅不動寺/手向神社」でした。鳥居を挟んでお寺と神社が同居する珍風景、両方とも過不足なく平等にお参りしてきました。
(平家慰霊塔、静かに佇んでいました)
(お寺と神社の同居、どちらも立派でした)
急ぎ足ながら倶梨伽羅むかし道の下見を終え、今度は大急ぎで富山市内に戻ります。
「富山に来たら必ず連絡しろよ!」と言われている、かっての遊び仲間?高校時代の同級生二人と、三年ぶりに会うためです。
今回は、市内で開業医をしているY君のお世話で、呉羽山山頂の「富山観光センター」で宿泊と食事会となりました。
互いの奥方も加えて、機会あるごとに旧交を温め昔の悪がきに戻って盛り上がるのです。古希超えともなると、さすがに若いころのようには騒げませんが、静かに呑み交わしつつ、話題も痛む膝やら霞む目の話が中心となりますが、これはこれで相手の老化を確認できて嬉しい?ものです。(笑い)
(昔に戻って、遠慮のない会話が弾みました)
(呉羽山より市街越しに望む立山連峰/ホテルの廊下画像)
(同じ場所より。生憎の曇り、ホテルの画像のようにはいきませんでした)
翌日は妻と自分、それぞれの実家に立ち寄り、先祖さまのお墓に手を合わせてきました。もっとゆっくりとしたいと思いながらも、ここ数年はなんだか時間が無くて申し訳なく思います。
しかし、それもこれも元気でいる証拠!、ご先祖様もきっと赦して頂けることでしょう。 (おわり)
ついでに?幾つかの用事もこなしてきました。
まずは、11月に楽山会の会山行として予定している「倶梨伽羅むかし道」の下見です。
加賀と越中を結ぶ峠道として早くから利用されていましたが、この街道が有名になったのは、何といってもあの旭将軍・木曽義仲が牛の角に松明を結んで、10万の平家軍を谷底に追い落として大勝利したという『倶梨伽羅古戦場・火牛の計』としての由緒でしょう。
倶梨伽羅で負けた平家は、京より追われて・・・やがて滅亡する。
その後も参勤交代などにも利用されるなど、重要な道として役目を果たしてきた倶梨伽羅峠道は、昭和30年代まで使われていたといいます。
歴史を刻む倶梨伽羅峠、幾つかの見どころもあります。数10年ぶりに訪ねてみました。
コース全体、富山県側(左)より石川県側(右) クリックで拡大!
スタートは小矢部市の護国神社、脇には立派な「源平の里・埴生口」として観光案内所があります。街道の説明や源平合戦の様子、更にはパンフレットやお土産まで、何でもそろいます。
義仲が戦勝祈願したという「埴生護国神社」、幾つもの歴史的遺物も見られます。
(階段の上が埴生護国神社、重要文化財です)
(旭将軍・木曽義仲の騎馬像、デカイ!)
神社参拝後は、遊歩道入口からむかし道への歩きスタートです。小石を敷いた簡易舗装がしばらく続きましたが、次第に昔の道らしくなってきました。
「たるみの茶屋跡」を過ぎ、広く開放的な「峠茶屋跡」にきました。ここには昭和30年代頃まで、行き交う人々のために茶屋があったとされ、故事にまつわる石塔などが幾つもありました。
(”むかし道”スタート地点。駐車場やトイレあり)
(むかし道らしくなってきました)
(開放的な峠茶屋跡)
更に進むと「矢立堂」~「塔の橋」~「砂坂」~「猿ヶ馬場」などの見どころが続きます。今回はあまり時間が無いので急ぎ足の下見となりましたが、それぞれに歴史的価値もあり次回はゆっくりと見学したいものです。
石川県に入ると、源平古戦場の色彩がより強くなってきます。
「平家の陣地跡」、「源平合戦慰霊の地」を過ぎると、牛の角に松明を付けた「火牛の計」の像もありました。、400頭~500頭もの頭数を集め、嫌がる牛の角に松明を付ける・・・出来るものだろうか?、だれか実験してくれないものか?
(源平合戦平家陣地跡、手前の平石で軍議したらしい)
(源平合戦慰霊の地)
(「火牛の計」の像、牛迷惑だったろうなぁ・・)
展望台や公園もありますが、立派な「平家慰霊塔」もあります。
そして、今回の終点は「倶梨伽羅不動寺/手向神社」でした。鳥居を挟んでお寺と神社が同居する珍風景、両方とも過不足なく平等にお参りしてきました。
(平家慰霊塔、静かに佇んでいました)
(お寺と神社の同居、どちらも立派でした)
急ぎ足ながら倶梨伽羅むかし道の下見を終え、今度は大急ぎで富山市内に戻ります。
「富山に来たら必ず連絡しろよ!」と言われている、かっての遊び仲間?高校時代の同級生二人と、三年ぶりに会うためです。
今回は、市内で開業医をしているY君のお世話で、呉羽山山頂の「富山観光センター」で宿泊と食事会となりました。
互いの奥方も加えて、機会あるごとに旧交を温め昔の悪がきに戻って盛り上がるのです。古希超えともなると、さすがに若いころのようには騒げませんが、静かに呑み交わしつつ、話題も痛む膝やら霞む目の話が中心となりますが、これはこれで相手の老化を確認できて嬉しい?ものです。(笑い)
(昔に戻って、遠慮のない会話が弾みました)
(呉羽山より市街越しに望む立山連峰/ホテルの廊下画像)
(同じ場所より。生憎の曇り、ホテルの画像のようにはいきませんでした)
翌日は妻と自分、それぞれの実家に立ち寄り、先祖さまのお墓に手を合わせてきました。もっとゆっくりとしたいと思いながらも、ここ数年はなんだか時間が無くて申し訳なく思います。
しかし、それもこれも元気でいる証拠!、ご先祖様もきっと赦して頂けることでしょう。 (おわり)
この記事へのコメント
こうした道を歩くにはただ、歩くのではなく、歴史も学び、頭に入れなくてはダメですね。
こうした歴史には疎くて、トンと無知でした。
猛暑、熱中症などと言っている内にすっかり秋の気配ですね。
私も後手後手で、夏の記事に追われています。
旧友との交歓も奥方様同伴とは羨ましい限りです。
旧交温めと奥方孝行と一挙両得ですね。
800年も前の源平時代、古い歴史がここにも残っていました。
11月のトレッキングでは、寒ブリの宿に泊まってこのコースを皆さんに歩いて頂く予定です。
そして、いつまでも交流の続く同級生、50年以上も付き合っていけるなんて有難いことです。